８．　千鶴のいない学校

　数日後、千鶴は学校を早退した。熱を出したという事だった。
　その事を知った豪は、急にミツ夫に幅を利かせ始めた。彼待望のチャンスがいよいよやってきたのだ。苦手な千鶴がいなくなれば、もうこっちの物だった。
　次の日、豪の反撃が始まった。事件はまず、登校時に起こった。教室のドアを開けたミツ夫の頭に、黒板消しが落ちてきたのだった。それを見ていた豪は、数人の仲間達と共に笑った。
　黒板消しを黒板の所に戻した後、ミツ夫はなるだけ平静を装って席に着いた。そして、音楽の授業の用意をするために、笛を机の中から取り出そうとした。だが、無い。さすがにミツ夫も慌てた。鞄の中の物なんかそっちのけで、あちこち笛を探し回った。そしてゴミ箱の陰を見た時、「まさか」と思いながら、ふと彼はゴミ箱の中を覗いた。ゴミの中に笛の頭が覗いていた。
　今度ばかりは、ミツ夫も怒った。
　「豪！　ふざけるのも程って物があるよ！」
　「何言ってるんだい。こないだの言葉、忘れたのかよ！」
　「いくら何でも、卑怯じゃないか。どうせやるなら、正々堂々とやれよ！」
　「ふぅん、正々堂々とね」
　豪は、つかつかとミツ夫のそばまでやって来た。
　既にクラスの生徒は、ほとんど登校してきていた。だが、みんな二人を遠巻きにして囁き合っているだけだった。
　「そんなに俺に、反抗したいのか」
　「好きで、やってる訳じゃないよ」
　「うるせぇ！　大体、お前は……」
　そう言いながら、豪はミツ夫の胸ぐらをつかんで、床に押し倒した。
　「……転校生のくせに、生意気なんだよ！」
　ミツ夫は必死になってもがいた。だが、それは無駄な抵抗だった。豪は、こぶしを振り上げた。
　「おい、先生が来たぞ！」
　その声に、みんなは蜘蛛の子を散らすように、それぞれの席に戻っていった。十秒後には、いつも通りの一日が始まっていた。ただ一つ、ミツ夫のランドセルが机の上にのっかったままだった事を除いては……。
　彼が、シャツの第二ボタンが無くなっているのに気づいたのは、音楽の授業が始まってからだった。

　授業の後、音楽室から家庭科室に入ってきたミツ夫は、スミレの所へ行った。
　「どうしたの？」
　「実は、ボタンを無くしちゃったんだよ」
　「今、休み時間でしょ。どうして探さないの？」
　「探しても、見つからないんだ。ねぇ、裁縫箱の中にボタン、無かった？」
　スミレは、箱をかき回してみて、首を振った。が、何を思ったのか、後ろを向くと、片手にハサミを持った。その間も、話は続けている。
　「全く、日曜日に買って貰ったばかりのシャツのボタン無くすなんて、一体どんなドジをやらかしたの？」
　「別に、ドジした訳じゃないよ。ただ、ちょっと強く引っ張られただけだよ」
　「はい、ボタン」
　スミレは振り向くと、服に付いていた予備のボタンを差し出した。
　「これ、黄色じゃん。すぐにバレちゃうよ」
　「大丈夫。有人さんだって、そんな細かく見ないわよ。それに、黄色も白も似たような物でしょ。贅沢言わないの」
　そう言いながら、スミレは針に糸を通した。
　「ボタン、つけてあげるわ」
　ミツ夫は、ためらいながら言った。
　「え、遠慮しとくよ。その針とハサミだけ貸して」
　「自分でやる気になるなんて、思わなかったわ」
　その言葉には応えず、ミツ夫は家庭科室を飛び出していった。
　スミレも後を追った。彼はまっすぐ、六年三組の教室に飛び込んでいった。
　（もう、私の腕が信用できないなんて……）
　スミレは、心の中でミツ夫に舌を出した。

　「それにしても、かなり派手にやったなぁ」
　「豪の性格を一言で言えば、カバオ＋ハル三ってトコか」
　「いや、それ以上だぜ」
　結局ミツ夫は、スミレよりは信頼できる法善に、ボタン付けを頼んだのだった。
　「でも、こうやって聞いてると、君の共通語も、だいぶ板に付いてきたみたいだね」
　「どうも。ほら、これでおしまいっと」
　「サンキュー」
　その時、チャイムが鳴った。
　「あ、急がなくちゃ。じゃぁね」
　ミツ夫は、六年三組を飛び出すと、今度は家庭科室に飛び込んだ。

　ついてない時というのは、とことんついていない。給食の時から、先生は出張でいなくなった。しかも、給食当番には豪がいた。
　その結果は、悲惨な物だった。まるで、命令されたかのように、一番酷い物ばかり彼の所には置かれていたのだった。用事で、ちょっと出掛けていたミツ夫は、取り替えようにも残り物は全部分けられていた為、何とも言えない顔つきで、給食を食べた。
　そして、五時間目は社会。プリントをやる事になっていたが、スムーズに行くはずがなかった。
　「おい、俺の分もやれよ」
　豪がつっけんどんに自分のプリントを差し出した。
　「お断りだね」
　ミツ夫は、自分でも分からないような力で、プリントを押し返した。豪は怒って言い返した。
　「何で俺の命令に従わないんだよ」
　「どうして、従う必要があるんだい？」
　「それは、お前が借家人だからさ」
　「そんな法律、知らないな」
　「ここでは、そうなってるのさ。それともお前、今度こそ痛い目に遭いたいのか？」
　ミツ夫は、唇をかみしめた。だが、次の瞬間の豪の言葉は彼には厳しすぎた。
　「ふん、成田家のお世話になっているんなら、俺の言うことは何でも聞くんだぞ。この貧乏人め」
　豪が、ミツ夫の足を蹴飛ばした。ミツ夫は思いっきりその足を蹴り返した。それから後は、もう無我夢中だ。二人が我に返ったのは、二組の有馬先生の声がした時だった。
　「成田君、鳥羽君。自習中に喧嘩するなんて、何事ですか！　廊下で正座してなさい！」
　ブレーキ役の千鶴がいないと、こうまで発展してしまうのだろうか。ミツ夫はこの時ほど、千鶴のありがたさをしみじみと感じた事はなかった。

　「足、大丈夫かい？　しびれたろ」
　「大丈夫、大丈夫」
　前田の質問に、ミツ夫はおどけて見せた。
　「でもミツ夫、勇気あるなぁ」
　三雲が言った。
　「今朝といい、さっきといい。考えてみたら、豪にああまで反抗した人間、僕が知っている限り君だけだぜ」
　「そうだよ。みんな君のことを『凄いヤツだ』って、感心してるんだぜ」
　「本当に僕が、勇気有る人間だろうか……」
　二人の言葉に押されながら、ミツ夫がポツリといった。
　「決まってるじゃないか。みんなが豪にたてつかない訳はね、豪の仕返しが怖いからなんだ。しかも君ん家は、家だって借りているのに、それを全然考えずにやってるんだもの。みんなが感心するのは当たり前だよ」
　「そうだった……。大変だ！」
　ミツ夫は、思わず声を出して叫んだ。このツケは、有人さんに回ってくるのである。そしてそれは、ひいては鳥羽家全体に回ってくる。ミツ夫は、己が犯したことの重大さを感じた。

　その夜。
　夕食を食べていた有人は、ヒョイとミツ夫を見つめると言った。
　「おい、そのボタン、色違いだったっけ？」
　「うん、そうだよ」
　ミツ夫は、慌てて答えた。
　有人は、フッと笑うと言った。
　「いいか、ミツ夫。私の目は、節穴じゃないからな。ボタンがどうなっていたかぐらい、ちゃんと知ってるぞ」
　もう駄目だと悟ったミツ夫は、素直に謝った。
　「ごめんなさい。実は、ボタンなくしちゃって……」
　「それは見れば分かるよ。一体、どんな風にして無くしたんだい？」
　ミツ夫は、法善と顔を見合わせた。そして言った。
　「有人さん、怒らない？」
　「怒るも何も、聞かなきゃ分からないだろう」
　有人は、言った。
　「それじゃ、言うよ。実は……」
　ミツ夫は“訳”を話した。
　有人は、頷きながら聞いていたが、ある所まで来ると彼を見つめた。ちょうど、自習中の喧嘩のことを話していた所だった。
　「そんな事まで、言ったのか？」
　「うん。だから僕は、豪君がけっ飛ばしたから、けっ飛ばし返しちゃったんだ」
　有人は話を全部聞くと、いきなり立ち上がった。
　「有人さん、どうしたの？」
　ミツ夫は、尋ねた。
　「ちょっと、出掛けてくる」
　「どこへ？」
　「成田さんの所へだよ。これじゃ、あまりに酷すぎる」
　「そ、そこまでしなくても……」
　「何言ってるんだ。鳥羽家をけなされて、黙ってられるか」
　有人は、上着を引っかけると、
　「食事、片付けといていいからな」
　と言って、外へ出ていった。
　「あ、待ってよ！」
　ミツ夫の声は、完全に無視されてしまった。
　「有人さん“子供の喧嘩に、親は口出すな”って事、知らないのかしら？」
　スミレが言った。
　「知るわけないよ、宇宙人だもん」
　ミツ夫が答えた。
　（それにしても、自分から危険の中に飛び込んでいくなんて。有人さんって勇気ある人なのか、おっちょこちょいなのか、分からないや）
　ミツ夫は、そう思った。