１２．　ミツ夫の家出

　　川原での有人の告白から数週間後。その日は、教材費を学校へ納める事になっていた。ミツ夫はそのお金を忘れてしまったのだ。
　「いいか、明日忘れた者は家へ取りに帰ってもらうぞ」
　大沢先生はこう言った。
　だが問題はそれからだった。豪がまたちょっかいを出してきたのだ。
　「おいミツ夫。今の内に、先生に言った方がいいんじゃないのか？」
　「何てさ？」
　「『お金が出来るまで、待って下さい』ってさ」
　「たかが二百円くらい。今日はウッカリして忘れただけだよ」
　「とか何とか言って、二人分しか用意できなかったんだろ」
　「何だい、そう言う自分だって二百円忘れたじゃないか」
　「そこの二人、静かにしろ。授業を始めるぞ」
　大沢先生の声が、また響いた。

　「私も法善さんもちゃんと持ってきたのに、あなたが忘れるからよ」
　帰り道、スミレはミツ夫に向かっていった。
　「それは良く分かってるよ。でも、あの豪の言い方頭きちゃうよ。有人さんが成田運送辞めさせられたのは、豪のせいでもあるんだよ」
　「本当に。あれからおかず、前よりも貧弱になったもんな」
　「それよりも私、有人さんの体の方が心配だわ。毎朝起こすのが可哀想なくらい、グッスリ寝てるんですもの」
　「ねぇ、今から有人さんの所へ行かない？」
　「賛成！」
　ミツ夫の提案に、二人は声を上げた。

　砂利道の脇に排水溝が続いている。だがある地点まで来ると、大勢の人達が忙しく立ち働いていた。
　その中には、有人の姿もあった。排水溝の中に入って掘り出した土を外に出している。
　その内に、有人の方から三人を見つけて手を振った。三人も手を振り返した。
　
　その夜、食事を食べ終わってから二百円の話が出た。朝、こたつの上にのっかったままだった二百円を有人はミツ夫に渡した。それをこたつの隅に置きながらミツ夫は尋ねた。
　「ねぇ、新しい仕事、まだ見つからないの？」
　「ああ。もしかしたら、このまま年を越してしまうかも知れないなぁ」
　「でも、それじゃ、いつまでたってもお金なんか貯まらないじゃん。新学期の準備はどうするの？」
　「なぁに、その時にはまた何とかするさ」
　ミツ夫は、有人の落ち着き払った顔を見ている内に、何故か不思議な感情が沸き上がってくるのを感じた。
　「有人さん、もっと真面目になってよ！」
　「こっちは、真面目だぜ」
　「それなら何で、そんな投げやりに言うの？」
　「仕方ないじゃないか。明日は、何が起こるか分からないんだから」
　有人はそっぽを向いた。ミツ夫の心の中のムラムラがようやく形をとって現れてきた。
　「何だい。元はといえば、みんな有人さんが悪いんじゃないか。有人さんが余計な事したから僕らまで苦労するんだよ！」
　有人の目が険しくなった。いつものミツ夫ならたじろく所だが、今の彼にはそれを見つめ返す事ができた。
　「やめて！　二人ともやめてよ！」
　スミレが叫んだが、二人は、その声も聞こえないかのように互いに睨み合っていた。
　有人が、ついに低い声で尋ねた。
　「それじゃ、お前は私といるのが嫌なんだな？」
　「うん」
　ミツ夫が、顔の表情一つ変えずに頷いた。
　「そうか、それなら……」
　有人の声が急に、これ以上押さえきれないと言うように大きくなった。
　「俺はお前を鳥羽家の一員とは、認めない！　この家を今すぐ出て行け！　お前がどこで生きようと死のうと、俺は一切かまわないから、そう思え！」
　「ああ、それなら願ったり、かなったりだ！」
　ミツ夫も立ち上がると、隣の部屋へ行って荷造りを始めた。
　「法善さん、どうしてあの時、一緒に止めてくれなかったの？」
　スミレが法善を責めた。
　「大丈夫。きっと今夜中には解決するよ」
　「あんなに怒ってるのに、どうしてそんな事分かるのよ？」
　「二人の性格が似てるからさ。まぁ、根比べやで」
　「そんな人ごとみたいな事、言わないで」
　スミレはたしなめた。
　そんな会話の間にミツ夫は荷造りを終えて、玄関に立っていた。
　「みんなも早く家出したら？　こんな人と一緒にいると本当にろくな事ないよ。それじゃ、お元気で」
　ミツ夫は、玄関の引き戸を開けると外へ出た。戸が閉まる音がして、駆け足が遠ざかって行った。
　その間、ずっと有人は玄関に背を向けたままだった。

　「千鶴ちゃん、千鶴ちゃんてば」
　窓の外で誰か千鶴を呼んでいる。千鶴は、椅子から立ち上がると窓を開けた。
　「まぁ、ミツ夫君。一体どうしたの？」
　「さよならを言いに来たんだよ」
　「それじゃ、現代に帰れる事になったのね。良かったわ」
　「そ、そうじゃないんだよ」
　ミツ夫は慌てて言った。
　「僕、家出してきたんだ。多分、もう二度とこの町には足を踏みいれないと思うから、千鶴ちゃんにさよならを言いに来たんだ。僕がいなくなっても秘密、バラしちゃ駄目だよ」
　「分かったわ」
　「あ、それから、この事有人さんに言っても無駄だよ。何しろ『この家から出て行け！』と、言ったのは有人さんなんだから」
　「はいはい。それじゃ、さようなら」
　千鶴は、そう言いながら窓を閉めた。が、きびすを返すと隣の部屋に駆け込んだ。
　「お父さん、大変よ！　ミツ夫君が、家出したんですって！」
　しかし、その時にはもうミツ夫は小野寺家を後にして駆け出していた。

　柱時計が九時を打った。早々と床についた有人だったが、隣の空いた布団が気になってなかなか寝付かれなかった。それは他の三人も同じだった。
　有人が、ついに布団から飛び起きた。これ以上気持ちを抑えることが出来なくなったのだ。
　そっと着替えを済ませると、有人は家の鍵を持って外に出ていった。
　（どうやら根比べの軍配は、ミツ夫くんの方に上がったようやな）
　法善は、心の中で呟いた。

　「鳥羽さ〜ん」
　小野寺家の方へ歩いていった有人の前方に、人影が見えた。それが発した声で有人は声の主の見当がついた。
　果たしてそれは、小野寺さんだった。
　「ミツ夫が、そちらにお邪魔してませんでしょうか？」
　「いえ、挨拶だけはして行ったんですがね。それにしても、一体何事ですか？」
　「実は、恥ずかしながら、私の稼ぎのことで言い争いをしてしまったんですよ。それで、私が思わず怒ってしまって……」
　「『この家から出て行け！』と、言った訳ですか」
　「いやぁ、小野寺さん、まるで現場を見ていたみたいだ」
　二人は、顔を見合わせて笑った。
　「おっと、こうしちゃいられない。でも鳥羽さん、あなたも最大のタブーを言ってしまいましたな。ただでさえ不安定な時なのに、そこで突き放してしまったら、ミツ夫君が家出してしまうのもやむを得えませんよ。それよりミツ夫君が行きそうな所、心当たりがありますか？」
　「さぁ……」
　有人は、首をかしげた。
　「それじゃ、二手に分かれましょう。私は、町の方を探しますから、あなたは学校の方を探して貰えますか？　見つけたら、私の家に連れてきますから」
　「お任せします。本当に厄介ばかりかけてしまって……」
　「お礼は、ミツ夫君が見つかってからにして下さい。それじゃ、十時になったら水川橋で落ち合いましょう」
　小野寺さんは、水川橋の方へ急ぎ足で歩いていった。それを見送った有人は、朝日ヶ丘の方へ駆け出して行った。

　二人とも、見当違いの場所を探していた。なぜなら、ミツ夫は岩瀬川の方向に向かって歩いていったからだった。
　人っ子一人通らなかった。聞こえるのは、ただ川の音ばかり。人一倍臆病な彼のどこにそんな力があったのか、彼自身にも分からなかった。
　
　だが、ついにミツ夫は川原に来てしまった。水が引いた後に、濡れた中州が月の光に照らされきらめいている。その先に、乾いた中州が白く光っていた。
　濡れた砂は、足にまとわりついた。だがミツ夫は、それを無視して中州に寝っ転がった。
　中州の周りには、ひたひたと水か満ちてきていた。ミツ夫は、ただボンヤリとそれを眺めていた。
　ちょっと見ただけでは分からない、その心の中では次のような言葉が繰り返されていた。
　（僕は後悔なんかしていない。みんな有人さんが悪いんだ）
　その言葉とは裏腹に、心の中の苦い物は一層大きくなっていった。
　それと共に水も中州を取り囲んでいった。

　「どうですか、そっちは？」
　「駄目だ。全然見つからない」
　「全く、あいつめ……」
　水川橋のたもとで、二人は途方に暮れていた。
　「まだ、探していない場所で彼が行きそうな場所は？」
　有人は、顎を抱えて考え込んだ。
　「ウーン……、あいつが行きそうな場所……まてよ、まだ川の方は探してなかったぞ！」
　「そうですか。それじゃ、早速、出掛けましょう」
　「いえ、小野寺さん。もう夜も遅いし引き取って下さい。川が駄目な時は朝まで待ちますよ」
　「そうですか。それじゃ吉報を待ってますよ」
　「すみません」
　二つの人影は、また反対方向に分かれた。

　ミツ夫が気づいた時は、もう遅かった。中州は水中に孤立していたのだった。
　確かに、ずっとこのままという事はあり得ない。引き潮になったら帰れるのだ。だが今夜の川は、水量が多い。中州にしみ込んでくる水を吸い込んだ彼の靴は、びしょ濡れになっていた。
　そんな中でふと、心の中に浮かんできたのは有人のイメージだった。だがミツ夫は、慌ててそれを打ち消した。
　（バカ、こんな事になったのも、元はといえば有人さんがいけないんだぞ。それなのに、何でいまさら有人さんの事なんか……）
　何故か、怖くなってきた。遠くにぽちぽちと見える家々の明かりも、ここへ来た時よりだいぶ減ってきていた。上空にはもはや月もなく、流れていく黒い雲の切れ間から濃紺の空がのぞくのが、一層不気味だった。
　ミツ夫は、丈の高い枯れ草の茎をつかんで震えていた。
　（これじゃ、間違いなしに風邪引いちゃうよ……）
　自分の歯のガチガチ鳴る音を聞きながら、彼はそう思った。その時だ。ミツ夫の耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
　「オーイ、ミツ夫。いるなら返事してくれー！」
　（まさか、有人さんが？！）
　ミツ夫は思わず顔を上げた。川原の向こうの土手に黒い人影が見える。が、ミツ夫は慌てて顔を伏せた。そして呟いた。
　「ふん。いくら呼んだって、返事なんかしてやるか！」

　（やっぱり、ここにもいないのか……）
　探し疲れて、有人は土手に腰を下ろした。その視線が中州をとらえた時、その上の黒い固まりに有人の目は吸い寄せられた。確かに、それは一瞬動いた。有人は、水際に駆け寄ると叫んだ。
　「ミツ夫！　そこにいるのか〜？！」
　だが、返事はない。有人はさらに目を凝らした。
　また、それが動いた。まるでクシャミでもするかのように、立て続けに動いた。有人は、ミツ夫だと確信した。
　「オーイ、今、行くからな！」
　返事の無いのにはかまわず、有人は水中に足を踏み入れた。途端に、全身がゾクッと震えた。
　呼吸を整えてから、有人は少しずつ、水中深くに足を踏み入れていった。

　水の音の中に、異様な音が聞こえる。有人が、本当にやって来たのだ。
　川の流れは速く、水は膝近くまであった。何度か、有人は足をすくわれそうになった。しかし、彼はミツ夫だけを見つめていた。いつの間にか、有人は中州のそばに来ていて、両腕をミツ夫の方に差し伸べていた。ミツ夫は気が付くと、その腕の中に抱かれていた。
　ようやく川原にたどり着いた時には、二人の下半身は、すっかりびしょ濡れになっていた。
　いきなり、有人が土下座をすると言った。
　「ミツ夫、さっきの言葉は取り消す。だから、帰ってくれ。カッとなってついあんな事まで言ってしまったんだ。これからは、人の二倍も三倍も働くよ。頼む、帰ってきてくれ……」
　有人の声が震えているのは、寒さのせいなのか、それとも別の理由があったのか。ミツ夫は、言葉が途切れた時、目に光る物が見えたように思った。と同時に、心の中の凝り固まった物が、次第に溶けていくのを感じた。
　（ごめんなさい。悪いのは僕なんだ。だから、膝なんか付かないで！）
　その言葉は声にならなかった。その代わり、ミツ夫は有人の顔を覗き込むようにして言った。
　「帰ろう、有人兄さん」