３．　釜山へ……

　翌朝、雨は止んだ。
　道の途中の草原で、二人は疲れ切った体を休めていた。初夏の太陽が、雨上がりの草原から水を蒸発させ、湯気を上げさせていた。
　二人とも前夜から一睡もしていないので、眠くてたまらない。秀清はもう和清の肩にもたれかかって、寝息を立てている。だが、和清はウツラウツラしながらこれからのことを考えていた。
　やがて、和清は秀清を揺り起こした。
　「秀清、起きろ。ほら起きろったら」
　何度も揺り起こされて、やっと秀清は目を開けた。
　「ほら、朝御飯だ」
　二枚の乾パンを手にした和清を見ると、秀清は、ふらつきながらも手を伸ばして、乾パンを二枚ともつかんだ。
　「バカ、一枚だけだ！」
　和清は、慌てて秀清の手から、もう一枚を奪い返した。
　「ねぇ、もうこれだけ？」
　あっという間に食べ終わった秀清が「まさかそんな事は、無いだろう」という表情で尋ねた。すると和清は、水筒を彼に差し出した。
　「後は、こいつで誤魔化すんだな」
　秀清は「信じられない」というような顔をすると、水筒ではなくて、和清の雑嚢をつかんだ。そして中を引っかき回し始めた。すぐに秀清は、何かをつかんで引っぱり出した。それは乾パンの入れ物だった。
　「ほら、こんなにあるじゃない！　もう、兄さんったらケチなんだから！」
　「これっぽっちしかないじゃないか」
　和清はこう言いながら、乾パン入れを奪い返した。そして話し始めた。
　「秀清。これから我々は、何日も歩き続けなきゃならないんだ。食料はこの二倍あったって足りないくらいだ」
　「歩くって、どうして？」
　秀清は尋ねる。和清が答えた。
　「釜山（プサン）へ行くためだ」
　「釜山？」
　「そうだ」
　「何のために？」
　「義清を捜すためだ。あの橋を渡ったのは我々が最後だ。しかし、我々の近くに義清はいなかった。だとすれば、きっと我々の前を歩いているに違いない。私たちには、二人を義清と再会させる義務がある。なぜなら、離ればなれにしてしまったのは、私たちなのだから」
　「そうか……」
　秀清は呟くように言うと、水筒を手に取りラッパ飲みを始めた。

　やがて二人は、濡れた服を着替えると立ち上がった。そして、釜山への道を歩き始めた。

　その日は、どのくらい歩いただろうか？　ともかく“足が棒になる”という言葉が、そのまま当てはまるくらい、疲れ果てた足を進めるのは困難になってきた。そこで、二人は朝方いた草原によく似た草原で、その夜を過ごすことにした。
　またも乏しい食事を終えると、和清は秀清に、もう少し詳しい話をして聞かせた。
　「この道は、おそらく釜山へつながっているだろう。こんなに多くの人々が歩いているからな。ただ、どのくらい歩けば釜山まで行けるかが、私には分からない。一週間かかるかも知れないし、十日かかるかも知れない。いや、それ以上かかるかも知れない。その上、後ろからは北朝鮮軍が迫っている。グズグズしてはいられないんだ。という訳で、当然政府も我々避難民に、食事や宿を提供してくれるほど暇じゃない。つまり、自分の命は、自分で守らなきゃならんという事だ」
　「自分の命は、自分で守る……」
　「その通りだ」
　それから、沈黙が続いた。しばらくして、秀清がポツリと言った。
　「僕、自信ない……」
　和清は、それには答えず、ただ秀清の肩に手を置いただけだった。しかし秀清は、その手に込められた和清の思いを悟った。

　それから、数日後……。
　歩いていく避難民の列の中に二人がいる。だが、彼等は次第に遅れていくようだ。原因はどうやら秀清の方にあるらしい。
　「ねぇ、兄さん。少し休もうよ」
　「何言ってんだ。さっき休んだばかりじゃないか」
　和清の腕を引っ張る秀清を和清がたしなめた。秀清は、一旦は諦めて和清の腕を放したが、しばらくするとまた和清の腕を引っ張った。
　「ねぇ、兄さんったら。ねぇ」
　「うるさいっ！」
　和清は、邪険に秀清を振り払った。そして、前方を歩いている二人の母子を指して言った。
　「ほら見てみろ。あんな小さな子供だって、文句一つ言わずに歩いているじゃないか」
　その母親は、頭に荷物をのせ、もう一方の手で子供の手を握っていた。子供は五歳くらいの女の子だった。彼女は、確かに駄々一つこねずに、ただ黙々と歩いていた。
　「でも……。いや、きっと、あの二人は近くの村からやってきたんだよ。だから、あんまり疲れていないんだ」
　秀清は、ここで引き下がる訳にはいかないので意地を張った。これが和清の癇にさわった。
　「秀清！　いい加減にしろ！」
　その声と同時に、和清の手が秀清の頬につき、耳元で、パチンという乾いた音がした。
　次の瞬間、秀清が見たのは、真っ赤になった手をしきりに振っている和清だった。不思議なことに、秀清の頬はちっとも痛くなかった。
　「秀清！　今度そんな寝言を言ったら、承知しないぞ！」
　和清はそう叫ぶと、周囲の視線を浴びている自分に気づき、慌てて秀清の手を引っ張って歩き出した。

　だが秀清は、しばらくすると和清の戒めなどすっかり忘れてしまい、また和清の腕を引っ張り始めた。
　「ねぇ、兄さん。少し休もうよ」
　秀清がこう言うと、和清は彼を睨み付けた。秀清はシュンとなったが、しばらくするとまた、
　「ねぇ、兄さん」
　と、腕を引っ張った。
　その途端、和清は秀清の手を振り払うと、
　「秀清！　甘ったれるのもいい加減にしろ！！」
　と、叫んだ。同時に、秀清の頬に電撃が走った。
　熱くなった頬を押さえながら、秀清は和清を睨み付けた。和清は、もう周囲の目など気にもとめずに怒鳴りまくった。
　「ああいいさ！　そんなに休みたきゃ、勝手に休め！　ただし、俺とお前はこれっきりだ！　もう兄弟でも何でもない！！」
　すると秀清も、それに負けじと怒鳴り返した。
　「ああいいよ！　どうせ釜山へ行くと言い出したのは、兄さんなんだから！　どのみち僕は北朝鮮軍に殺されるんだ！　どこで死のうと、僕の勝手さ！　だいたい、バードマンには、元々僕を殴る資格なんかないんだよ！！」
　「言いたいことは、それだけかい。それじゃさようなら、秀清君」
　和清は、バカ丁寧に言うと手を振った。
　「さようなら、和清さん」
　秀清も、バカ丁寧にお辞儀をして、道ばたへ歩いていった。和清は、それを見もせずにまた歩き出した。

　「ふん、何だよ。もうあんな人、兄さんでも何でもないや」
　秀清は、草むらの中に寝っ転がったまま、腹立たしいように呟いた。
　風が草をそよがし、彼の頬をなでていった。まるで、平手打ちの痕を冷やすように……。
　その内に彼の目の中で、空の青と草の緑が重なり、ゆっくりと暗くなっていった……。

　和清は、ガムシャラに道を歩いていった。だが、彼の心の中には引っかかる物が一つあった。それは、アルマイトとしての彼が、初めてミツ夫としての秀清に手をあげたということだった。
　（今までの１号なら、変身銃をチラッと見せればすぐに大人しくなった。だが、今の俺にはそんな物はない。怒りにかられた俺は、我を忘れてカッとなり、気がついた時には１号を殴っていた。あれで、良かったんだろうか……）
　いつしか、和清の歩みは、止まっていた。
　（バードマンには、僕を殴る資格なんか無いんだよ！！）
　彼の心の中で、秀清の叫びがこだましていた。

　気が付くと、秀清は深い霧の中にいた。何も見えない。何も聞こえない。ただ、足元が草むらを踏んでいることを感じるだけだ。
　（これじゃ、本当の五里霧中だ）
　そう心の中で呟いた秀清だが、ふと自分の背後から何かが迫ってくるような感じがした。身の毛もよだつような感じだ。
　（逃げなくちゃ！！）
　秀清は、焦って走り出した。だが、その身の毛もよだつ物はどんどん近づいてくる。姿は見えないが気配で分かる。
　どれほど走っただろうか？　不意に霧が晴れた。その瞬間、怒濤のような音が聞こえてきた。前方を見た秀清は息をのんだ。草原は彼の数歩手前で切れ、その下は断崖絶壁に荒れ狂う波が打ち付けているだけだった。
　後ろから、例のものが迫ってくる。だが数歩走れば、確実に死が待っているのだ。秀清は、耐え難い恐怖の中で震えていた。その足が、知らず知らずの内に、一歩一歩絶壁に近づいている。
　ついに、その足が空を切った。
　「和清兄さん！！」
　落ちていく時、秀清の口からこんな声が発せられたが、秀清の耳はそれを否定した。

　和清は、さっき秀清と別れた地点まで戻ってきていた。だが、秀清の姿はどこにも見あたらない。途方に暮れた彼の目に、一人の少女がとまった。彼女に和清は見覚えがあった。さっき秀清を殴った時に、周りにいた人々の中にこの少女もいたのだ。十五〜六歳くらいの民族服姿で、頭に大きめの荷物をのせている。和清は、少女に近づくとこう尋ねた。
　「あの、私の弟が、どこへ行ったか知りませんか？」
　すると少女は、顔を赤らめながらこう言った。
　「私で良ければ、ご案内しますわ」
　「えっ、本当ですか？　それは、ありがたい」
　和清が言うと、少女は少し決まり悪そうにこう言った。
　「あの場に居合わせていたんですけど、私、お二人の兄弟喧嘩に他人が口を挟むのもどうかと思いまして、そのまま見守っていたんです。ところが、とうとうあんな風になってしまったので、私、どうにも気になって、そっと弟さんの後を付けたんです。そしたら、どんどん草原の中に入って行っちゃって、寝っ転がったと思ったら、眠ってしまったんです。だから私、毛布だけ掛けてあげた後、戻っていらしたあなたが迷うといけないと思って、ここで待っていたんです」
　「そ、そうだったんですか。どうも」
　和清は頭をかいた。その時だ。
　「和清兄さん！」という叫び声が、風に乗って右手の方から聞こえてきた。二人は顔を見合わせると、声の方向に向かって走り出した。

　それは、長い時間のようにも、一瞬の時のようにも思えた。ところが、彼が海中に没しようとするその瞬間に荒海は消え、彼の体は和清の腕に抱きかかえられていたのである。
　「兄さん！！」
　秀清は、そう叫んだ後は何も言えなくなり、ただ和清の胸に顔を押し当ててこみ上げてくる涙を堪えていた。和清は、そんな彼に言った。
　「私も悪かったんだ。ついカッとなって、手をあげたりなんかして。また、兄弟を引き離してしまう所だった……。許してくれるか？」
　返事の代わりに、秀清は頷いた。そして言った。
　「兄さん、僕、もう二度とワガママなんて言わないよ」
　「ところで、そろそろ私の腕から下りたらどうだ？　みっともないぞ……。あれ？」
　秀清にこう言った和清だが、ふと、確かにここまでついてきて毛布をたたんでいたあの少女がいないのに気づき、辺りを見回した。
　「バカ、お前がグズグズしていたから、あの娘、どこかへ行っちゃったじゃないか」
　「あの娘って、誰のこと？」
　どうやら秀清は何も知らないらしい。和清は、慌てて言った。
　「今更話したって、どうにもなる訳じゃいし、行こう。日が暮れちまうぞ」
　だが、歩き出した和清の心の中には、依然あの少女の姿が残っていた。何だか忘れようとしても、忘れられない、そんな予感が、和清の心を吹き抜けていった。
　そして秀清は、こんな事を考えていた。
　（もしかしたら、僕もコピーに甘えていたんじゃないだろうか……？　だとしたら、今度の事で、僕は少し大きくなったような気がする……。そうだ、現代に帰ったら、もっとコピーを大切にしよう……）