５．　兄さんが帰らない夜

　次の日、秀清が目を覚ました時には、もう太陽が空高く上がっていた。
　始め彼は、自分がどこにいるか分からなかった。だがやがて、昨日この収容所になった学校に泊まったことを思い出した。
　「やれやれ、かなりお寝坊さんだったな」
　ふと脇を見ると、和清がいた。彼は手に持っていたおむすびを秀清に差し出した。
　「ほら、炊き出しだ」
　秀清はおむすびを受け取った。そして尋ねた。
　「ねぇ、義清兄さんは、どこにいるの？」
　「そんな簡単に見つかる訳ないじゃないか。ともかく今日は、この収容所内を探すんだ」
　もうおむすびを頬張っていた秀清は、その言葉に頷いただけだった。

　その日の夜。二人は夕食を食べ終わると、今日の成果と、これからの事について話し合った。
　「やっぱり駄目だったよ。結局、こっちへ来ても、歩き回る羽目になったちゃったね」
　「だから言ったろ。『後で泣きベソかくな』って」
　「うん、分かってるよそれは」
　「ならいいんだ。それじゃ、明日からは外へ足をのばしてみるか」
　「はい」
　秀清はそう言うと、毛布をひっかぶった。

　それから数日後のこと。和清は、避難民で満ち溢れている街の中を歩いていた。だが、陽が西に傾くにつれて、人影は次第に減っていった。それもそのはずだ。もう街には戒厳令が敷かれていて、日没後の外出は禁じられているのだ。ところが彼は、あまり遠くまで歩き過ぎたため、道に迷ってしまったのだ。
　「参ったな……。このままじゃ、夜になっちまう……」
　思わず口に出して呟いた和清は、ふと、ある噂を思い出した。
　最近、あちこちの収容所が夜更けに兵隊達に襲われ、適齢期の男性が強制的にトラックで、どこかへ連れて行かれたという……。
　和清は、路地裏に飛び込んだ。その一帯は、激しい戦闘に巻き込まれたらしく、あちこちにガレキの山があった。そこで彼は、半ば崩れかけた一軒のレンガ建ての建物を見つけた。
　（よし、今夜はここで野宿しよう。でも、秀清のヤツ、心配してるだろうな……）
　和清は、そう思いながら、家（？）の中に入っていった。

　夏の夜は蒸し暑い。久方ぶりに味わった完璧なまでの空腹感を抱えながら、和清はレンガのかけらを枕にして、ガレキの中の隙間に寝っ転がっていた。
　（コピー、今頃、何してるんだろう……？）
　ふと、頭の奥から、こんな言葉が飛び出してきた。そして、その後から“アルマイト＝カラコルム”としての彼の様々な思い出が、溢れ出てきた。
　そこで彼は、今の自分の（宿主の）姿を見直してみた。もう真っ暗闇なので、ボンヤリとしか分からないが、約二十日も歩き続け、その間滅多に着替えもしなかったので、ボロボロの上に、埃まみれになっている服と手足のことは、想像するまでもなかった。それを思うと、彼は腹の底から笑いがこみ上げてくるのを押さえることが出来なかった。
　久しぶりに、和清は腹の底から笑った。戒厳令などという言葉は、彼の心からは吹き飛んでしまった。
　「アーッハハハハ……。俺も落ちぶれたものよ！　バードマンだって？　笑わせんじゃないよ！」
　どこかで彼の叫びに答えるように、野良犬が鳴いた。その声を聞いた途端、和清の目から、涙が溢れ出た。手で顔を覆うと、和清は、すすり泣いた。
　自分の行く末を思って……。

　お椀に入ったスイトンは、とうの昔に冷えていた。しかし、和清は帰ってこなかった。
　（兄さん、どこへ行っちゃったんだろう……？）
　戒厳令の話は、秀清も聞いていたが、それを和清の失踪と結びつけるほど、彼は落ち着いてはいなかった。
　（もう、待てない！　食べちゃおう！）
　秀清は、心の中で叫ぶと、冷えたスイトンにかぶりついた。

　それは、いつ頃のことだったろう？　ともかく、秀清が床についてから、かなりの時間が経っていた事だけは確かだ。不意に、眩しい光が目の中に飛び込んできたので、秀清は目を覚ましてしまった。寝ぼけ眼で見ると、黄色い光があちこちの窓ガラスに反射して、揺れ動いている。
　「十五歳以上、三十歳未満の男子は、外に出ろ！」
　雷のような声がしたかと思うと、寝床のあちこちから、黒い人影が立ち上がって戸口へ向かって歩いていった。秀清は、反射的に隣を見た。そこには、すり切れた毛布が丸まっているだけだった。
　（兄さんも、もしかしたらこれに捕まったんじゃ……）
　秀清の心に、黒い雲が沸き上がってきた。
　やがてサーチライトが消え、トラックの発進音がした。そして、その音は次第に遠ざかると、消えた。
　秀清は、毛布をひっかぶった。しかし、その夜はとうとう一睡もできなかった。

　翌日。秀清は朝から、学校の門の所に立って通りを見ていた。しかし、和清の姿は、見えなかった。
　いい加減空腹になってきた頃、道の向こうに人影が見えた。その人影は小走りに走っていた。そして、だんだんこっちへ近づいてくる。その顔が分かった瞬間、秀清は思わず歓声を上げた。
　それは紛れもない、和清の姿だった。
　「兄さん！！」
　秀清は、和清の所へまっしぐらに駆けていき、その体に抱きついた。
　「よかった！　もう、一体どこへ行ってたの？！　僕、てっきり、あの兵隊達に捕まったんだと思っちゃったじゃない！」
　和清は、秀清の手を離しながら、言った。
　「何言ってるんだ。もし、万が一捕まったとしても、逃げてくるよ」
　「兄さん、お腹空いてるでしょ？　朝御飯食べに行こう」
　「そりゃぁ、いいや。私は、また二食抜きになるかと思った」
　二人は、笑い声を上げた。秀清は、和清の手をしっかり握りしめた。まるで「もうどこへも行かせないぞ」というように……。和清は、そんな秀清の姿を見ながら、こう呟いた。
　「やっぱり、こいつは雛鳥だ。俺の翼の下で震える、雛鳥だ」

＊　　この章、竹川 秀幸　著【帰り道は遠かった】を参考としました。