７．　和清出征

　暦も十月に入った、ある日。大邸の町の入り口近くに、くたびれたような顔をした二人の人間がいた。どうやら兄弟らしく、兄が弟の手を引っ張って歩いている。
　「秀清、もう少し早く歩けないのか？」
　「だって、足が痛くて……」
　「やれやれ、もう少しの辛抱だから、我慢しろ」
　和清は、秀清をたしなめると、歩みを早めた。
　やがて二人は、市の入り口へさしかかった。和清が言った。
　「私は、ここで何かいい物があるかどうか見てくるよ。まさか手ぶらじゃ、李さんの所にお世話になりにいけないからな」
　「でも、お金あるの？」
　「なぁに、釜山で稼いだはした金が、まだ少し残っているんだよ」
　「それにしても、良く稼げたね」
　「余計な事だと言ったろ。別に泥棒した訳じゃないんだし。それじゃ、お前はここを動かないで待っててくれ」
　「はい」
　秀清の返事を聞くと、和清は市の人混みの中に入っていった。

　市は、活気に満ち溢れていた。和清は、何を買おうかと、あちこち見物していた。その時だ。
　「おい、どこ見て歩いてるんだ！」
　と、いう声がしたかと思うと、和清は腕をつかまれた。彼の目の前には、二人の軍人が立っていた。腕をつかんだのは、将校らしい白人だった。
　「す、すみません。ちょっと、よそ見をしていたもので……」
　しかし、和清の言い訳には耳を貸さず、男は尋ねた。
　「貴様、いくつだ？」
　「二、二十三です」
　「二十三？　それにしては、かなり呑気そうだな」
　（しまった！）
　和清は、心の中で叫んだが、もう後の祭りだった。
　「どこにも悪そうな所はないな。どうだ、我々の所に来ないか？」
　「遠慮させていただきます」
　和清は、出来るだけ丁寧に言った。
　「私には、帰りを待っている弟がいるものですから」
　「その弟とやらも、お前が軍隊に入って、祖国のために戦ってくれることを望んでいると思うがな」
　和清が「そんなことはありません」と、言おうとした時、
　「君、中隊長には逆らわない方がいいですよ」
　ずっと脇にいた、もう一人の兵士が、少したどたどしい話し方で言った。どうやら、アジア人らしい。
　「何しろ、凄い力持ちですから。まずは、大人しく従っておいた方がいいですよ」
　その言い方には、誠意が感じられた。それに、その中隊長とやらは、いかにも強そうだった。炭坑の激しい労働で、かなり体力はついているであろう和清にしても、もし戦ったら勝ち目はないだろうという事は分かった。
　「それじゃ、弟に一言断ってから……」
　和清が言うと、中隊長は、こう尋ねた。
　「どこにいるんだ、その弟とやらは？」
　「市の入り口に……」
　「それじゃ、ジョージ、ひとっ走り行って来い。我々は、先に行っている」
　「了解、中隊長」
　“ジョージ”と呼ばれた青年は、上手に人混みの中をすり抜けると、視界から消えてしまった。
　「ところで、お前の名前を聞いていなかったな。名前は？」
　「“金　和清”です」
　「そうか。わしは“ビリー＝ハリソン”だ。まぁ、ひとつよろしく頼むよ」

　市の入り口で待っていた秀清だが、その内に無性にトイレに行きたくなった。そこで彼は、路地裏で小用を済ませることにした。
　ところが、し終わってから通りに出てみると、どこがどこだか分からなくなってしまっていた。どうやら、出てくる道を間違えたらしい。ガムシャラに歩き回っていく内に、秀清は、ますます訳が分からなくなってしまった。その時だ。
　「おや、秀清じゃないか」
　明らかに、聞き覚えのある声だった。秀清は、辺りを見回した。
　「こっちだ、こっちだ」
　また、声がした。その声は、右の方から聞こえてきた。秀清がそっちを見ると、むしろの上に靴が並べてあり、その後ろに、李　在寿の姿があった。
　「おじさん（クナボジ）！」
　秀清は「助かった」というような声を上げて、そこへ駆け寄った。在寿が尋ねた。
　「兄さんは、どこにいるんだ？」
　「僕も探しているんです。この市の中にいるはずなんだけど……」
　「そうか」
　在寿は、自分の体を少しずらした。
　「どうだ、しばらくここにいないか？　兄さんも、じきにこっちへ来るだろう」
　「でも僕、市の入り口で待ってろって言われたんだ。だから、そうしなきゃ」
　「それじゃ、あっちへ歩いていけば、じきに行き着くから。兄さんに会えたら、こっちへ来い」
　在寿は、右手を指しながら、こう言った。
　「はい」
　秀清は、勢い良く返事をすると、走り出した。

　ところが、いくら待っても和清は来なかった。日も傾き、市ももう終わりのようだ。その証拠に、在寿がやってきた。
　「どうだ、兄さんは来たか？」
　秀清は、かぶりを振った。
　「そうか。もう夕方なのにおかしいな」
　「もしかしたら……。いや、そんな……」
　「どうしたんだ？」
　在寿が、心配そうに尋ねる。秀清はかぶりを振った。
　「秀清、ひとまずわしの家へ行こう。おそらく和清も、ここへ来てお前がいなかったら、わしの所へ来るだろう」
　「うん……」
　秀清は頷いた。

　ついに、夕食も食べ終わってしまった。寂しそうな顔をしている秀清に、在寿は言った。
　「秀清、今夜はもう風呂に入って寝た方がいい。兄さんが来たら、起こしてあげるから」
　「おじさん……」
　秀清は、思い詰めたような表情で言った。
　「僕、思うんだけど、もしかしたら兄さん“兵隊狩り”に捕まったんじゃ……」
　「うむ……、もしかするとな。最近、また激しくなっているようだし。どうやら、米軍の兵隊にするために、集めているらしい。しかし、この分では、統一は間近い。なぁに、もし兵隊に取られても、すぐに帰ってくるさ。ピンピンしてな」
　「おじさん……」
　「この戦争は、そんな簡単に終わらないよ」と、言おうとした秀清は、今の時点ではそんな事は分かりっこないことを思って、後を続けなかった。

　それから、数日後……。
　秀清は毎日、叔父の店の手伝いをしながら、兄の行方を探していたが、一向に手掛かりはつかめなかった。
　ところがその日の昼過ぎ、叔父の店で秀清は、一人の兵士に呼び止められた。その兵士は、手に持った紙切れと秀清の姿を代わる代わる見ると、彼に話しかけた。
　「君は“金　秀清”君ですか？」
　少したどたどしい朝鮮語だった。ところが、顔は東洋人の顔をしていたので、彼は『日本帰りなのだな』と思った。そして返事をした。
　「はい」
　その言葉を聞くと、兵士は安堵したような顔になった。
　「そうですか。私は、米第三師団の兵卒“ジョージ＝アカマツ”です。君の兄さんからの言づてを持ってきました」
　「本当！」
　秀清は声を上げると、ジョージの差し出した紙切れに飛びついた。そして、もどかしげに紙を開くと、読み始めた。

　秀清、私が突然消えてしまったので、酷く心配していることと思う。私は“兵隊狩り”に捕まり、ここに連れてこられた。ここには、私だけではなく、たくさんの韓国人がいる。我々は、米第三師団の現地補充兵として、これから訓練を受け、元山（ウォンサン）に向かうのだ。
　私は、昨日一晩考えた。ここを脱走するのは、生易しいことではない。それに、そうすれば、私は“タイム・パラドックス（＊１）”にかかってしまうかも知れない。なぜなら、彼の心には「戦う」という文字はあっても「逃げる」という文字はないからだ。そのため私は、一時期、自分を殺し和清の意志に任せることになるだろう。
　秀清、君は、あの雨の日、私と交わした会話を覚えているだろうか？　あの時「もし」と言ったことが、これからの私の心持ちだ。私は、帰ってくる。必ず、五体満足な姿で。だから、それまでは、悪いが李さんに事情を話して、同居させて貰うようにして貰いなさい。ただし、李さん達の言う事を良く聞いて、出来ることは進んでやりなさい。（ただし、ドジは踏むなよ）
　質問があったら、この手紙を持ってきた人に聞くといい。それじゃ、元気でがんばれよ。お互い、また会う日まで。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　金　和清

　「おじさん！　兄さんの所へ連れてって！」
　手紙を読み終えるか読み終えない内に、秀清は叫んだ。だが、ジョージは、首を振ると言った。
　「それは無理だよ。私だって、公務をかねて出てきたんだから。それに、二十五の青年に向かって“おじさん”は、ないんじゃないか」
　秀清は、うなだれた。そんな彼をジョージはなぐさめた。
　「我々が進撃する頃には、もう、おおかたケリがついてるよ」
　秀清は、ジョージの言葉に答える術を知らなかった。
　「それじゃな、元気でやれよ」
　ジョージは、秀清の肩を叩くと歩き出した。その背中に向かって、秀清は叫んだ。
　「兄さんに伝えて！　僕、毎日、兄さんの無事を祈ってるって！」

　事の一部始終を聞いていた在寿は、振り向いた秀清の目を見やると、優しく言った。
　「どうやら、先の約束を果たすときが来たようだな」
　そして、秀清の手を握ると、言った。
　「今日から、お前をわしの息子と思って扱うから、そのつもりでな」

　その夜……。
　油紙の床がやたら気になる。秀清は、何度も寝返りをうった。懐には、あの和清からの手紙が、何度も読み返したせいで、ヨレヨレになって入っていた。
　ついに、金三兄弟は、離ればなれになってしまったのだ。しかも、和清が秀清の居場所を知っている以外は、誰も相手の居場所が分からないのだ。
　今の秀清は、ただ一つ、次の文章を支えにしていた。
　『私は、帰ってくる。必ず、五体満足な姿で……』
　（そうだ、兄さんは帰ってくる。必ず）
　秀清は、無理にも自分にそう思い込ませようとすると、眠りについた。

　ところが、その夜、秀清はこんな夢を見た。どこかは分からないが、とある道の脇に秀清は立っていた。彼の目の前をたくさんの兵隊が通り過ぎていく。どうやら彼は、その中に和清の姿を見つけ出そうとしているらしかった。
　やがて、その中に見覚えのある人を秀清は見つけた。彼は、わき目もふらず、まっすぐに前を見て歩いていく。
　「和清兄さん！」
　秀清は叫んだ。しかし、彼は、その声が聞こえないのか、どんどん歩いていく。秀清は前へ出ようとしたが、人垣に遮られてしまった。その間にも、和清は歩いていく。
　「兄さん！」
　喉も張り裂けんばかりの声で、秀清は叫んだ。しかし……。

＊１　　時間テーマＳＦにおいて、考えられうる矛盾。

【作者の朝鮮ノート】
　十月二日、マッカーサー総司令官は、北進を下令（命令）した。そして、国連軍の快進撃が始まった。そんな中で、十一月三日、六十五連隊の元山上陸を皮切りに、米第三師団の集結が始まり、同十七日、集結は完了した。三師はＲ・スール少将を指揮官とし、米国、韓国、プエルトリコ、黒人など、雑多な種族が集まった“ごった煮部隊”とでもいえるものだった。